イギリスは、甲板に立ち空と海との境界線をぼんやりと眺めていた。
航海中にこれほど気を抜いているとは、いつもの自分からすれば実に信じ難いことである。海賊船長ひいては海軍を指揮する者として、海上ではいかなる危難にも迅速に対応するため常に神経を尖らせているが、今のイギリスは使節団の一員とは言え単なる船客の一人である。否、この心境はそのような立場の違いから来ているのではない。
やがて水平線の向こうから陸地が姿を見せ始めた。居並ぶ建築物は、彼にとっては初めて目にするものである。
「……随分変わっちまったな、ニューヨークも」
最後に訪れたのは百年以上昔のことだ。大事な弟の独立を阻止しようとの意志に燃え――そして、挫かれた。以来、悲しみを引き摺るイギリスはアメリカに渡ったことは無い。再びアメリカと戦うことになった時も、イギリスはそれをカナダに任せて自分はフランスを叩くことに専念した程である。
しかし、世界はあまねく変化を強要する。
今度は対等な「国」同士としてイギリスはアメリカと付き合わざるを得なくなり、あらゆる手を尽くして逃げ回るもとうとうアメリカ本人と直接対面させられるためこの船に乗せられたのだった。
アメリカの顔を見たら何と言えばいいのだろうか。そもそも自分は冷静に彼と話せるのか――考えれば考える程、かえって思考は混乱していく。目に入る景色も認識できなくなる。
イギリスは頭を振り、マイナスの感情を追い払おうとした。そろそろ船は港に着く。みっともないところを部下に見せるわけにはいかない。
すると、今まで気付かなかったものが視界に飛び込んできた。軽く顔を上げその全貌を見たイギリスは、表情そのままに顔をひきつらせた。
「イギリス! 久しぶりなんだぞ!」
アメリカは万感の思いを込め、しかしわざと明るい調子で声を掛けた。
百年以上、待ち望んだ瞬間だ。最後にイギリスと会った調印式の場で、一瞬すらも目を合わせてくれなかったことを思うと酷く緊張したが、それを表に出さぬよう笑顔を作る。
「あ、ああ。元気だったか?」
「当たり前さ! 君も元気そうで何よりだぞ」
「そうか、じゃあさっさと仕事の話をしようぜ」
そう言ってイギリスはそそくさとアメリカの横を通り過ぎた。
「イギリス……?」
振り返りながらアメリカは、不安と不審に揺らいだ声で、呟いた。
イギリスの反応については、事前に様々なパターンを頭の中でシミュレートしていた。冷たい目で睥睨するか、それとも激しい語調で過去の裏切り(彼にとっては、今でもそのような認識だろう)を糾弾するか――しかしイギリスは、そのどれにも反して妙な愛想笑いを浮かべアメリカに相対した。
独立後初めての再会だ。それが正であれ負であれ、何らかの劇的な心の動きがイギリスの側に生じて然るべきである。彼の態度は或る意味でアメリカに最大限、深刻な衝撃を与えた。
その後の会談でもイギリスは、終始どこか上の空と言った体でアメリカの存在など認識しているかどうか怪しい有様であった。
「はぁ……」
イギリスは上司の部屋から出るなりあからさまな溜息を、吐いた。その様子を見咎めた部下の一人がイギリスに声を掛ける。
「どうしたんですかイギリスさん。あれ、その書類、新しい仕事が入ったんですか?」
まぁな、とイギリスは沈みがちの声で答える。
「気は進まねぇけど……上司の命令だから仕方ないよな」
つい先程上司から言い渡されたのは、アメリカに行って貿易関係の交渉をしてくると言う任務だった。交渉自体は上手くやる自信があるが、前提となる「アメリカへの渡航」に気が進まないのだ。
アメリカに行けば、どうしてもアレを目にすることになる。
ほんの僅かの間思い浮かべるだけで憂鬱な気分になるのを、イギリスは自分でもどうすることも出来なかった。
イギリスとの会談は問題なく行われた。
内容だけ客観的に見れば、そう思う。
「じゃあ俺は本国に帰るから――」
そう言って椅子から腰を浮かせる、イギリス。そわそわしていて一刻も早くこの場から離れたがっているかのようだ。
またかい、とアメリカは落胆した。再会以来彼とは仕事以外でまともに言葉を交わせていない。
(そんなに今の俺は見たくないのかい?)
正面から、はっきりと拒絶された方が遙かにましだと思う。そうしたら、少なくとも目は合うのに。
「イギリスっ……!」
気がつけばアメリカはイギリスの腕を握っていた。
「な、何すんだよ!?」
「いい加減俺から逃げないでくれよ……!」
「はぁ!? お前言いがかりも――」
「俺には君の嘘なんかお見通しなんだぞ!」
「っ!」
イギリスは息を呑み、そのまま呆けたかのように身体の力を、抜いた。
「なぁイギリス。百年経っても俺は君に認めてもらえないのかい?」
「べっ、別にそう言うわけじゃねぇよ」
「なら、どうして仕事が終わったらすぐに帰っちゃうんだい? そんなに俺とは話したくない?」
「だ、だってよ……」
するとイギリスは、個性的な眉をふにゃりと下げた。
「あのでっかい女神像! あれがワイン野郎にそっくりなのが悪いんだよ!!」
「――はいぃ?」
「あーもう、フランスがこっち見てによによ笑ってる気がして、ニューヨークにいる間はずっと気分悪いんだよばか」
意識しただけで寒気が、とイギリスはアメリカの手をふり解き己の身体を抱きしめる。
「失礼だぞ! あの女神は彼にちっとも似てないよ!」
「いーや似てる! まず第一にだな――」
そのままイギリスは、些細なことをあげつらい女神像とフランスの類似について熱弁した。
(そう言えば、イギリス避けに一番利くのはフランスだって誰かが言ってたんだぞ……)
女神像を贈ったフランス自身も似ているとは言っていたが、度合いは「ちょっと」だった。好きなものより嫌いなものの方に対してより過敏になるのかもしれない。
とは言え、ここ暫くの悩みの原因があまりにも間抜けだったので、アメリカは自分が理由でないことを喜べず「もういいよ……」と呟くのだった。
- 了 -
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