ピグマリオンエフェクト

11/08/24

 趣味で日本語を勉強している時に知ったことがある。
 Skyを表す空と言う漢字には「ソラ」以外に「カラ」と言う読み方が存在し、それが意味するところはEmptyである、と。

 その日テレビ局はどこも一日中バーナビーの功績を讃える番組を放送していた。ジェイクを倒すことで両親の敵を討ち全シュテルンビルト市民を救ったスーパーヒーロー。まさに英雄の名にふさわしい男。
 特にHERO・TVは、これまでのオンエアに使われた映像を超特急で編集して流す力の入れようだ。時折パワードスーツを破壊した三人の活躍も挿入される。
 勿論、入院中のヒーロー達も病室のテレビでそれらを観ていた。つい先程まで本人達が見舞いに来てくれていたのだが、面会時間の終了、と言うよりバーナビーが再びインタビューに駆り出されたため他の皆も一緒に帰ってしまいその後はテレビで暇つぶしをするしかなくなった、と言うところか。
 移動が車椅子だと言う制限はあるものの、既に病床を離れられるようになったイワンは他の三人の病室に残った。独りきりで自分のベッドに戻るには、決戦後の空気で気分が浮き足立ちすぎている。
 とは言え、イワン自身を含めこの場にいる全員が重傷患者である。バーナビーを助けるために無茶をし過ぎて病室に舞い戻ってきた虎徹は既に夢中の人であり、首を痛めたアントニオもなるべく安静にしようと思ったのだろう、ベッドの傾斜を早々に戻して目を閉じた。
 残る病室の住人はキースのみだが、彼は先程からずっと視線をモニタに固定していた。そこには新撮りのバーナビーのインタビューが映っている。

「バーナビー君は、見事に期待に応えたんだな」

 ぽつりキースの口から漏れた、言葉。
「スカイハイさん?」
「あ、ああ。考え事が声に出てしまったようだね。すまない、そしてすまない」
「いえ、僕は気にしてませんけど」
 イワンにしてみれば、寧ろアントニオが就寝してから続く互いの無言に所在の無さを感じ始めていたところだ。モニタを観るキースの真剣な、そして何処か哀しげな表情は自分の方から話しかけるのを躊躇わせるのに十分すぎた。
「スカイハイさんは何を考えていたんですか?」
「うん。バーナビー君はジェイクを倒して市民と亡きご両親と、そして恐らくワイルド君からの期待に応えた。それは素晴らしい、実に素晴らしい事だ」
 もしバーナビーが敗北すればシュテルンビルトの半分を壊滅させるとジェイクは公言していたため、あのとき市民の半数以上の命はバーナビーに掛かっていたと言っても過言ではない。そして彼の両親がジェイクによって殺害されたと言う話は、今この時も繰り返し報道されている。
 そして、虎徹はバーナビーを信じて外傷だけを塞いだ状態で彼の元へと赴いたのだ。アントニオからあれは無茶をしていると聞かされたとき、イワンは虎徹の相棒に対する想いにいたく感動したものだ。
「そうですね……バーナビーさんは素晴らしかったです」
 イワンがキースの言葉に同意を唱えると、キースは一瞬息を、飲んだ。
「バーナビー君だけじゃない。ファイヤー君とローズ君とドラゴン君、彼らもパワードスーツを駆逐して立派に期待に応えた――君も、そして君もだ折紙君」
 キースがイワンの方を向く。地顔が既に微笑んでいるかのような彼の、インクブルーの瞳が揺れている。

「危険を賭してジェイクのアジトに潜入してパワードスーツの情報を得てきてくれた。シュテルンビルト崩壊を防げたのは君のおかげだ」

 イワンは潜入直後にキースから掛けられた言葉を心の中で幾度も繰り返し陶然となった。
『良くやった、やったぞ良く!』
 あの言葉は極度の緊張状態にあったイワンにとって何よりの励ましであり報いであった。ここ数年間にヒーローを志すようになった者で「キング・オブ・ヒーロー」スカイハイに憧れない者はいない。風を自在に操り空を飛び、人を助けて障害を斬り裂く。強力なNEXT揃いのヒーロー達の中でもスカイハイの強さそして万能さは群を抜いており、正義と平和を愛する姿勢は模範という言葉をそのまま実体化させたかのようだ。
 既にヒーローの一員であるイワンもまた、キングに憧れる一人である。しかし市街でヒーローカードを買う子供達やヒーローアカデミーの後輩達のそれとは性質がかなり異なることをイワンは自覚している。
 互いの呼び方こそ「折紙君」「スカイハイさん」とヒーローの立場としてのものだが、いまここにいるのはヒーロースーツに包まれたその内側だ。シュテルンビルト市民の殆どが知らないスカイハイの正体をイワンは知っている。スカイハイの中から出てきたキース・グッドマンはスーツを着ている時と何ら変わらぬ素晴らしい存在だった。エドワードの事件をきっかけに強くなろうと決めた万年最下位の自分に親切にアドバイスしてくれたあれこれの思い出は、イワンにとって宝箱の中に大切に封印しておきたいほどのものだ。

「だが、私は何も出来なかった。そして、出来なかった」

 キースの沈痛な呟きにイワンの意識は一瞬で引き戻された。ケットの上で握りしめられたキースの拳は小刻みに震えている。
「スカイハイさん……」
「皆の期待に応えられず失望させてしまった私に、ヒーローの資格などあるのだろうか」
 キースが今堪えている痛みは恐らく肉体のものではない。初めて見るキースの苦悩する姿にイワンの胸も、詰まる。
「そんな、悲しい事言わないで下さい」
 イワンの言葉にキースは微苦笑を浮かべ、「すまない。そして、すまない」と謝罪した。
「君にそんな顔をさせるつもりは無かったんだ」
「いえ……僕のほうこそすみません」
 キースに気を遣わせてしまったことを恥じたイワンは、何とか場の雰囲気を変えようとした。
「その、今はお互い怪我をしているから――他の話をしたほうが気が紛れますよ。そうだ、僕、前からスカイハイさんに訊いてみたいことがあって」
「私に答えられる事なら何でも答えよう」

「スカイハイさんはどうしてヒーローになろうと思ったんですか?」

 ヒーローの全てがその志望動機を公言しているわけではなく、会社の指示でそれらしい話をでっち上げている者もいる――他ならぬイワン自身だが。それは発言から正体に繋がる個人情報を抜かれないための対策であり、顔に名前に痛ましい過去に……と己の全てを衆目に晒したのはバーナビーが史上初めてだろう。市民の知らないスカイハイの話を聞けるというのは何という優越か。
 キースはイワンの気遣いに気付いたようで表情を、緩めた。
「そうだな……私が能力に目覚めたのは十八歳の時だったんだが、制御できるようになってこの力が随分強力だと判ってから、周囲の皆が勧めてくれたんだ。私ならきっとヒーローになれる、そしてシュテルンビルトの平和と市民の安全に貢献できる、とね」
「それがきっかけなんですか?」

「ああ。皆が私の能力に期待してくれるのならばそれに全力で応えたい。昔からそうなんだ、私に出来ることで人が喜んでくれるのは嬉しい。そして、嬉しい」

 そこでキースは小さく「あっ」と呟き再び瞳を曇らせた。結局、会話は同じところに戻ってしまった。
 イワンはそんなキースを見つめ、そして理解した。
 ショーアップされたヒーロー達は多かれ少なかれ、スーツを着て活動している最中は市民にとっての偶像を演じている。会社の方針で売り出しに芸能指向の強いブルーローズやバーナビーは当然として、ワイルドタイガーは往年の「理想のヒーロー像」を強く意識しており(ただし、残念ながら上手くいっているとは言い難い)、ロックバイソンはミスで何かと出てしまう素を隠そうとしている。ファイヤーエンブレムはあのキャラを普段から意識して創っている節があるし、ドラゴンキッドは自分のヒーロー名にガールではなくキッドを選んでいることからも自分の少女性を排除したがっているように見うけられる。

 そんな中、スカイハイはヒーロースーツを着ている時と着ていない時に殆ど差が見られない特異な存在だった。

 折紙サイクロンと普段の人格とが最も乖離している、そして常に意識してヒーローを演じているイワンには、何故キースがキースのまま呼吸をするようにスカイハイでいられるのかずっと不思議だった。KOHを穫れる程のそれが彼の持つ才能なのかと思っていたが、どうやら違う。
 きっとスカイハイと言うヒーローのみならずキース・グッドマンと言う存在そのものが根底から他者による期待で構成されているのだ。
 だから彼には恐らく、素性を隠さなければならない自覚こそ有れどスカイハイとキースが異なる存在であると言う意識は無い。ヒーロースーツの表と内部は同じもので形作られ区別の必要は無い。
 そこまで考えたイワンの胸中に或る想いが、浮かんだ。
「きっと大丈夫ですよ、スカイハイさん。怪我が治ったらまたHERO・TVで大活躍してくれるって、きっと皆思っています――その、僕も。貴方は僕の憧れだから」

 市民の期待がキースの糧となりスカイハイを駆動させるのならば、彼の近くで己のそれを注ぎ込み続ければ、この怖いぐらい純粋な存在はいつかイワンを行動原理にしてくれるだろうか。

「そんなふうに言われると照れる、そして照れるな」
 はにかんだキースが指で絆創膏の上を掻いた。何処か幼子めいて可愛らしくすらある仕草だ。自分より年上で体格も遙かに良い相手に対し、ついそんなことを考えてしまうのはイワンの目が恋に眩んでいるからだけではきっと、無い。

 ジェイク事件の騒ぎが収束しても、シュテルンビルトには日々事件が勃発する。負傷組も退院するなり即座にHERO・TVに復帰した。ショーは連日何処かで必ず行われる。
『折紙サイクロン人命救助ーっ!』
 昨日の放送の録画が待合室に流れていた。イワンはモニタの中の折紙サイクロンを褒める。いいぞ、よくやった。スポンサーロゴの映りも最高だ。前シーズンは見切れしか出来ないと自分の可能性を諦めていたが、今期は違う。このまま行けば少なくともブービーでフィニッシュ出来そうだ。
 事件はまだ終わっていない。この後のシーンで犯人逮捕である。
 次に映ったのは空を飛ぶスカイハイだった。乱れぬ姿勢での高速飛行はとても美しい。
 スカイハイはそのスピードで先回りし犯人の行く手を塞いだ。腰の辺りで矯める定番の構え。青く光る破片を纏った風が逃走車に向け放たれる。
『おーっとぉ! スカイハイの攻撃が外れたぁーっ!!』
――しかし、風はぎりぎりのラインで外れ犯人はそのままスカイハイの横を通り過ぎた。そのまま逃げきると思われた車であったが、突然の閃光にボンネットを潰されて止まった。それは光ではなく、待ち伏せていたタイガー&バーナビーのハンドレットパワーつきの飛び降りキックだった。車内の犯人たちはそのままバーナビーに捕らえられ、録画はエンディングに入る。
「スカイハイさん……」
「どうも狙いが甘かったみたいだ。我ながらふがいない、実にふがいない」
「うわぁ!?」
 思わず名を呟いた当の相手が何時の間にか横に座っていて、ソファの上で座禅のポーズを取っていたイワンは驚きのあまり飛びすさろうとして落ちてしまった。
「ややっ、折紙君大丈夫かい。そして、大丈夫かい?」
「え、ええまぁ……」
 そのまま固まっているとキースに抱き上げられかねないため、イワンは慌てて普通の姿勢でソファに座り直した。
「改めて見てみると酷いな、昨日の私は」
 キースは曇りがちの瞳で、それでも笑顔を作って言った。これまで安定したペースでポイントを稼いでいたスカイハイは最近、活躍の度合いに波がある。要所要所でミスをすることも珍しくない。そしてスカイハイの不調がバーナビーによる追い抜きを許してから、二人のポイント差はどんどん拡がっている。今期のMVPはほぼ決まり、スカイハイはKOHの称号を得て以来初めてそれを手放すことになるだろう。
「そんなことありませんよ、きっと犯人の運転がカーレーサー並に凄かったんです」
「ファイヤー君みたいにかい?」
「ええ。きっと次は出来ますよ、犯人逮捕」
 イワンは普段はなかなか作るのが困難な笑顔でキースを励ました。
 僕は信じています、貴方の一層の活躍を。貴方はその双肩に掛かる期待そのものでできているヒーローだ――イワンは菫色の視線に万感を、込める。
「実に優しいな、折紙君は」
「優しくなんかないです、僕は」
 スカイハイを造る期待が市民たちのものではなく自分のそれに成り代われれば良いのに、とイワンは思っている。皆の為に戦うと言う彼が「今日は折紙君の為に頑張ったんだ」と笑顔で告げる夢を密かに見るぐらい許されても良いだろう。
 やや言葉に険を含んでしまったが、幸いキースは「ジャパニーズケンソン?」と小首を傾げただけで特に気にすることはなかった。

 スカイハイの不調はシーズンを跨いで以降も続き一時期は三位転落も危ぶまれるほど(とは言えブービーと最下位を行ったり来たりしている折紙サイクロンの視点で見れば雲の上の話だ)低迷していたのだが、或る日を境に完全に復調した。トレーニングセンターでのキースも往時の溌剌とした様子を取り戻し、元気よくウェイトトレーニングに励む姿が見られた――のだが。
「こんにちはスカイハイさん」
「折紙君。今からトレーニングかい?」
 私とは入れ違いだな、と言うキースのウェアは汗で肌に張り付いている。はっきりと現れた胸の凹凸を凝視しそうになったイワンは慌てて顔を、上げた。
「そうだ、昨日の活躍凄かったです。流石スカイハイさんって感じで」
「ありがとう。そして、ありがとう」
 キースの瞳に再び陰りが生じ始めているのをイワンは見たが、キースはそのまま片手を挙げ「では失礼するよ」と告げてトレーニングルームを出ていった。
「スカイハイさん……どうしたんだろう……」
 昨日のHERO・TVの生中継でもスカイハイに憂うような大きなミスは無かったはずだ。
「――例の彼女と上手く行ってないのかな」
「えっ!?」
 いつの間に近くまで来ていたカリーナの呟きにイワンは驚愕した。
「彼女、って?」
「あ、折紙はどっちもいなかったんだっけ? こないだスカイハイが恋の悩みを抱えてるって言ってたから、女子組でアドバイスしてあげたのよ」
「ボクもしたよ! アドバイス!」
 横からパオリンが元気良く手を挙げる。
「彼女にお礼を言いに行く、ってちょっと前にウキウキしながら言ってたけど、そういえばあれからどうなったのか全然聞いてないわね」
 更に反対側からネイサンが言う。イワンは女子組に三方を囲まれるかたちとなった。
「スカイハイさんが……恋……」
「折紙が驚くのも無理無いわよね。私たちだって聞いたときは凄くびっくりしたもの」
 カリーナの、どこか得意げな言葉は既にイワンの意識から遠い。

 等しく万人の為を思って活動しているキースが、特定の誰かに想いを寄せていた。

 その、事実はイワンにとって天蓋が崩落するほどの衝撃であった。イワンから見たキースはそのような個人的な感情からは遠くかけ離れた人物であり、だからこそイワンは一縷の望みを密やかにキースへの言葉に織り込むことが出来たのに。
「なに、あんたスカイハイに先を越されたと思ってたりする?」
「あら、アンタならちょっとやる気を出せば簡単に恋人作れそうだけどね。カワイイから」
「い、いいえそんな事は……ただ、本当に意外だったから……じゃあ、僕トレーニング今からなんで」
 イワンは振り切るように女子組から離れると空いているマシンに座った。
 とは言え、トレーニングに集中できる心境ではなく、怪我をする前に早々に切り上げるしか無かった。
[newpage]
「はぁ……」
 ジャスティスタワーを出てからもずっと、イワンは喉奥を塞がれたかのような憂鬱に苛まれていた。虚しい努力と解っていても、気分転換のために普段はモノレールを使うところを徒歩で移動する。
 或る花屋の前を通り過ぎようとしたとき、イワンは店から出てきた買い物客と衝突しそうになった。
「……ぁっ! 失礼!」
「いえ――キース、さん?」
「何だ、イワン君じゃないか。奇遇だ、実に奇遇だね」
 キースは先程購入したばかりなのであろう大きな花束を抱えていた。紅と白、二色の薔薇を目にしてイワンの心に見えぬ棘が、刺さる。
「もしかしてこれからデートですか?」
 わざとからかうような口調で、笑顔を作って――その裏に在るのは、融けたアスファルトのようなどろりとした感情だ。
 一方でキースはトレーニングセンターで見せたような影のある笑み――彼には全く似合わない表情――を、浮かべた。

「いや……私が一方的に待っているだけだよ」

 キースの言葉で己の感情の粘度が下がったことにイワンは、気付く。何と傲慢な心の機微か。
「イワン君は急いでいるのかい?」
「いいえ、別に……」
「迷惑でなければ少し一緒に歩かないかい」
 キースはその、薔薇の花束について話したいのだとイワンは、悟った。そして例え拷問に自らを投ずる行為だと解っていても自分はキースの誘いを断れない。
 イワンはキースの足の進むまま彼に付いていったが、予想外にキースは歩いている最中一言も口を利かなかった。
 やがて、二人は大きな噴水のある公園に辿り着いた。キースは噴水の周囲を見渡すと、嘆息して花束を持つ腕に力を、込めた。
 ここは、恐らくキースと彼が恋をした相手との思い出の場所なのだろう。
 キースは噴水前にあるベンチに腰掛けた。その隣に座っても良いものか、とイワンは迷う。
「どうぞ、イワン君」
 キースに促されやっとイワンがベンチに掛けると、キースは問わず語りを始めた。
「――彼女はいつもここに座っていたんだ。赤と白が似合う物静かな女性でね、あまり自分の事は語りたがらなかった。パオリン君のアドバイスで一度赤いカチューシャを褒めてみたんだが、別に赤が好きなわけでは無いらしい」
 キースがその女性について知っているのは、後は目覚めたばかりのパワー系のNEXTらしい、と言うことぐらいらしく、イワンの中で上手く彼女の輪郭が像を結ばなかった。もしかしたらキース自身、誰かに話さなければ彼女の存在が風化してしまうと恐れているのかもしれない。
「あの頃の私は、出動のたびにジェイク事件を思い出して肝心な時に動けなくなって――市民の期待に応えられない事が辛かったんだ。こんな自分は誰からも必要とされない、そう思い詰めていた私を救ってくれたのが、彼女の『何故?』の一言だった」
「――っ!」
「彼女は、嘆くばかりで何もしようとしなかった自分に気付かせてくれた。結果は行動についてくる、そうだろう? その夜に私は暴走アンドロイドを倒し、街の平和を守ることが出来た。私が今もヒーローを勤められるのは彼女のおかげなんだよ」
 だからお礼だけでも言いたかった、と語るキースの顔をイワンは、見れない。
「……それが、彼女と会った最後の日、なんだ。何故名前だけでも訊いておかなかったんだと後悔している……そして、後悔している」

 俯き膝の上で拳を握りしめているイワンを、キースは自分に同情してくれていると思っているのだろうか。否、イワンが考えているのは自分のことだ。

 自分は間違えてしまったのだとイワンは、思った。イワンがすべきだったのはスカイハイ=キースという殻を創る期待を己のそれに置換することではなかったのだ。外面と内面とがあまりに近接しているキースの中心はがらんどうで何もない。そこに、件の彼女が填まって隙間を埋めた。そうしてキースは初めて、万人を愛する「スカイハイ」と同一ではない一人の女性に恋する「キース・グッドマン」を手に入れたのだ。
――とても、敵わない。
 イワンは無力感に打ちひしがれ、目の奥から沸き上がってくる熱さに懸命に、耐えた。
「イワン君」
「っ、な、何ですか?」
「そろそろ暗くなる。私の話に付き合ってくれてありがとう。そして、ありがとう」
 つまり夜になるから家に帰れと言うことだろうか。確かにイワンは帰宅途中だったが、突き放された気がして苦しくなる。
 その時二人のPDAが同時に鳴って、イワンは不謹慎だと解っていつつもこのタイミングでの出動要請に感謝した。

 全てが終わったある日、トレーニングセンターの休憩室でバーナビーが何かの資料を難しい表情で読んでいるのをイワンは見た。
「こんにちはバーナビーさん」
「折紙先輩」
 返事をしながらバーナビーが紙をめくった途端、恐らくクリップで最初のページに留めてあった何かがひらりと床に舞い落ちる。
「これ、落ちましたよ」
「あっ……有り難うございます」
「――写真?」
 そこに写っていたのは、初老の男性と人形めいた美貌の少女だった。
「僕の両親の同僚と彼が創ったアンドロイドですよ」
「アンドロイド……」
 表情を曇らせたバーナビーと同様に、イワンも胸の痛みで眉を潜めた。記憶を書き換えられた為とは言え、偽のワイルドタイガーを信じて本物である虎徹を犯罪者として捕らえようとしてしまったことは、ヒーロー達全員に苦い後悔となって刻印されている。
「人を幸せにする為の両親の技術があんな形で悪用されるなんて――正直、今でも信じられない」
「そうですね……幾らでももっと良い事に使えるのに。こっちの人がアンドロイドでしたっけ? ここまで人間そっくりなら――」
 そこでイワンの言葉が、止まる。

 少女は赤と白の服を着て、白に近い髪を赤い幅広のカチューシャで押さえていた。

「ええ、だから最初はパワー系NEXTかと思ったんですよ。実際は戦闘用アンドロイドでヒーローのデータがインプットされていたんです。能力を発動した僕や虎徹さんでも苦戦するぐらいパワーがあるし、しかも飛行能力まであった。あそこでスカイハイさんが来てくれなかったら――折紙先輩?」
「パワー系……赤い、カチューシャ――」
 恋した少女について語るキースの声が、イワンの脳裏で木霊する。
「どうしたんです? 顔色凄いですよ」
「一致するんです……スカイハイさんが恋してたって女の人の特徴に……パワー系NEXTで、彼がアンドロイドと戦った日からずっと会えてないって……」
 それでバーナビーはイワンが言いたかったことを理解したらしい。痛ましげに眉を、潜める。
「すぐにこれ、ロッカーに仕舞ってきます。万が一でもスカイハイさんの視界に入らないように」
 席を立ったバーナビーが休憩室から消えると、イワンは両手で己の顔を、覆った。

 手と手の隙間から漏れる――乾いた笑い声。

 何と言う、皮肉。
 キースが自分を立ち直らせてくれた恋する少女を、彼女と知らず破壊したことがではない。
 がらんどうのヒーローが魂を持たないアンドロイドに恋をした。キースを立ち直らせたという少女の言葉はプログラムによる条件反応で、そして彼が彼女に対して抱いた期待の鏡面反射だ。
 ならば今、キースの内側に詰まっているのは恋を識ったキース自身。彼は未だに誰のものでも、ない。
 イワンは休憩室の時計を見た。まだ夕刻には時間がある。先にトレーニングを終えて帰ったらしいキースはきっと、今日もあの公園で待つのだろう――己の期待で形成された幻を。
 今度こそ間違えるものかと心に誓い、イワンは立ち上がってトレーニングルームに戻った。

- 了 -


 24話より前の、筆者のスカイハイ観を詰め込んだもの。ピグマリオン効果とは、人間が他者から期待された通りの成果を上げる傾向のこと。

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